3月9日

レミオロメンの3月9日という曲がある。「なんて曲をつくってくれたんだ…」と小さく呟く。

 

母親の誕生日が3月9日で、毎年この時期になると思い出したように実家に連絡をする。姉に、自分の代わりに線香を仏壇にあげてくれと頼む。

 

母親は小学校5年生のときに亡くなってしまった。今でも覚えているのは、病院でみた最後の母親の姿。酸素マスクをつけベッドに寝ている母親。目も開けられず言葉も発することができないほど衰弱していた母親。死というものを肌で感じ、死の恐怖を体感させられた。

 

母親がいなくなって20数年。母親と居た時間よりも、居なかった時間のほうが長くなってしまった。もう顔も声も思い出せない。実家の仏壇に飾られている写真をみて「こんな顔だったなぁ」ということをやっと思い出す。でも、この時期になると母親のことを思い出す。どんな声をしていたか、どんな声で笑っていたか、泣いていたか、悲しんでいたかも思い出せないのに、思い出ばかりが蘇る。

 

成績が悪くて涙を流しながら叱られたこと。

 

姉には内緒で2人でレストランにいっておいしいお昼を一緒にたべたこと。

 

派手な水色のドレスを来てファンデーションを塗りたくって授業参観にきてくれたこと。

 

腹を叩きながら、カーペンターズの「TOP OF THE WORLD」を歌っていたこと。

 

美空ひばりの愛燦燦をとても上手にうたうこと。

 

でも、顔も声も思い出せない。思い出は受け取った側が懐かしんで、美化してしまっている部分もあるので一概にいい思い出ばかりとは言えないかもしれない。嫌なこともたくさんあったはず。でも、こうして書いているときに思い出される母親の顔はだいたい笑っている気がする。母親がいないことが当たり前だった。だから母親がいないということで不憫に思われることがよくわからなかった。今となってはなにひとつ悲しくないし自分を不幸とおもったことは一度もない。ただ、寂しいなと思った。

 

流れる季節の真ん中で、月日の長さを感じます。

瞳を閉じればあなたが、まぶたの裏にいることで、どれほど強くなれたでしょう。

あなたにとってわたしも、そうでありたい。

音楽を聴いている。

音楽を聴く時間が増えた。その理由は今流行りのサブスクリプション配信というものだ。自分が使っているサイトはApple Musicである。気になった曲やアーティストは検索してライブラリに追加してダウンロード。随分とお手軽で便利である。重宝している。

名古屋にきてからはCDを買うことがほとんどなくなってしまった。東京にいた頃は行きつけのレコードショップなどもあったが名古屋にはなく、Apple Musicで事足りてしまうのである。とはいえサブスクリプションも万能ではないので、配信されていない音源などもある。そういうときはCDを買うようにしている。しかし、Apple Musicでほぼ欲しい音楽が見つかってしまうのだ。すごい、すごいぞサブスクリプション

 

職場の後輩に「はくちさんは聴く音楽のジャンルが幅広いですね」と言われた。そんなことはないぞ後輩。俺にだって聴かない音楽のみっつやよっつはある。ほぼ「苦手」「無理」なジャンルがないだけだ。強いて言うなら、流行りの音楽には疎いかもしれない…ジャニーズやAKB、ハロプロ系、avexサウンド、メタルなどはあまり聴かないかも…いや、触れ合っていないというだけで、実際に聴いたら案外好きな曲もあるのだ。

 

音楽というものは「その日によって聴きたい曲が変わる」ので、いろんな音楽を知っているとその時々の感情に合わせた様々な曲を思い浮かべることができる。元気をだすときはこういう曲、感傷にひたりたいときはこういう曲、あの子のことを考えるならこういう曲…とめどなく溢れてくる。

 

いい曲に出会うと、自分が最強になったような気分になる。感情が打ち震える。想像力や心情を掻き立ててくれる。それが音楽のいいところで、好きなところだ。そしてその探求は何歳になっても変わらない。Twitterで出会った音楽もある。フォロワーさんに教えてもらった音楽。今の自分を形成している音楽もその中に入っている。とてもありがたい。10代の仄暗く、少し痛々しかった時代では考えられないような音楽にも出会えた。

 

今、音楽を聴きながらブログを書いている。日曜日にすこし、寂しい気持ちになってしまっている人のことを思い浮かべながら。あの子のことを思い浮かべながら。

 

ここまで長い前置きになってしまいましたが、来週、恋人とライブに行きます。自分がプライベートで、そしてデートで誰かとライブに行くということは、その人と分かち合いたいと思う人だから。自分が楽しいと思うものを、一緒になって楽しんでくれる恋人が愛おしく、大好きです。

 

ひさしぶりのブログも惚気になってしまって申し訳ない。

何もないところから、武器を作る

敬愛するラッパー「狐火」さんの言葉を借りる。

 

 

今の自分は恐らく、なにひとつ持っていない。

 

周りから見た安定。

一般常識の範囲での仕事。

貯蓄。

 

今までの自分であれば「自分だけ生きていく分にはいいや」とタカをくくっていたのだと思う。しかし、大事な人が出来てから「なんとかしなければいけない」という気持ちで心が落ち着かない。

 

勘違いしないでほしいのは、プレッシャーに押し潰されてるとか、ビビっているとか、そういうことではない。いうならばエゴなのだ。恋人を幸せにしたい。そしてできれば、恋人にとっての最後の異性になりたい。そのために自分がしなければいけないこととは、なんなのだろうかと考えている。

 

今の自分の仕事というのは、就業時間が規則正しく決まっているわけではない。早く終わる日もあれば遅い日もある。そうなれば恋人とすれ違いなんてことは往々にしてあるわけだ。それに自分は今の会社の正社員ではなく、契約社員なのだ。月収はきちんともらっているし福利厚生もついている。しかし、それがなんだっていうのだ…「安定」という意味を、俺は履き違えていたのか。正社員じゃないと、周りは認めてくれないらしい。こんなんで恋人を幸せにできるのか…

 

…と、こんな話をしているが、これで恋人のことを諦められるほど、自分は弱くは出来ていない。

 

何もないなら、ここから作ればいいじゃないか。

結果をだして、誰に出しても恥ずかしくない自分になればいいじゃないか。

30数年の自分のすべてをぶつけて、恋人を幸せにできるように頑張りたいのだ。半端な気持ちで今の恋人と付き合っているわけではないのだ。

 

ただ、この気持ちは自分だけ突っ走っているのかもしれない。もしかしたら恋人はもう、自分と別れたいのかもしれない。考えたくないのかもしれない。自分は鈍感なため、そのサインにも気づけないでいるのかもしれない。

 

本当に好きな人の幸せを願うとき、自分はどうしたらいいのかわからなくなるときがある。わからないまま、答えを見つけようとあがきながら、恋人が自分のことが嫌になるまでは、恋人と呼ばせてほしい。そして嫌になられないように、媚びるのではなく寄り添おう。

しかなかったこと。

久しぶりのブログはポエムチックで自分語りな記事になっております。

そこを注意して、理解のあるかただけお読みください。

 

いいですね?忠告しましたよ??誹謗中傷されたらもう真っ赤な顔して反論しますからね???いいですか????いきますよ?????

 

 

 

 

 

 

 

 

小さい頃から大人になった今まで、「これしかない」と思って生活をしてきた。

 

運動音痴だったので運動部に入ると周りから置いていかれそうで怖かったから、吹奏楽部に入部した。

 

勉強ができないうえに、周りと同じことをしたくなかったから、大学にいかず専門学校に入学した。

 

専門学校の授業が忙しくて、就職活動をしなかったため、アルバイトしていた会社からそのまま就職をした。

 

これらすべて当時は「自分はこれしかできないから、これを極めよう」と本気で思っていた。自分のやりたいことを実現するため、自分が決めたことと思って、今まで人生を送ってきた。

 

でも見方を変えると、

「運動ができないなら頑張って練習して上手くなればいいじゃないか」

「頑張って大学に入ってやりたいことを実現させたらよかったじゃないか」

「就職活動と学業を両立させたらもっと選択肢があったんじゃないか」と、これを書いている自分がすでにそう思っている。

 

でもきっと、当時の自分は「自分にはこれしかない」「これがやりたい」と思っていた。本当はもっと違う人生があったのかも しれないのに。しかし後悔ばかりかというと、そうもないのが正直な話。選択肢を決めつけなくてもよかったかもなとは思うことはあるけれど、たいした問題ではない。

 

てんとう虫コミックスドラえもん」の第1巻収録の「未来の国からはるばると」という話の中で、のび太の子孫のセワシくんとドラえもんが、こんなことを言っていた。(一部改変がありますがご容赦ください)

 

「東京から大阪まで、飛行機でいっても新幹線でいっても船で行っても、結局は同じ場所につく。過去を変えても辻褄を合わせれば僕は生まれてくるのさ」

 

この言葉を自分勝手に解釈すると、「目的に向かう手段が1つではない。」ということ。一見きれいごとのように聞こえる言葉だが、これは意外と的を射ているなぁと思いう。自分は周りとうまくコミュニケーションがとれず、自分の殻から見える世界で生きてきたのだなと感じた今日この頃。

「これしかできない」「これしかない」という気持ちは自分の力になる。なんでも自分でできるようになる。でもそれは、本当は損している気がした。自分の言葉を聞いてくれる人や協力してくれる人、共感してくれる人がまわりにいることは幸せなこと。なんでもひとりでやってしまうと、周りがはいりこめなくなって自分と他者の間に隔たりができてしまう。それはとても寂しいことだ。現に今、自分には友達と呼べる人が少ない。ガンガン突き進んでいったら周りを無視しつづけてしまった。それでも、これも自分が決めたこと。時間は戻らない、ただ前に進んでいるだけ。だからせめて未来は少しでも、いろんな考え方ができるようになりたいなと思う。「30を超えて何をいっているんだ」と思うかもしれないけれど、30を超えたからこそ率直に思い感じている。

 

乱文にて失礼しました。

この記事は全体を通して読んでいただくより、言葉の一節を見ていただいた方が楽しいと思います(ただ単純に文章が下手くそなだけですごめんなさい)

怖さ

夏がおわる。

 

毎年、夏をそこまで意識せずに過ごしてきました。仕事に四季を感じるわけでもなく、世間が休みのときに働く業務なので、自然と夏に疎くなる。夏らしいことは、ほぼしていない近年。このままではいかんなと思い、ひとりで島に日帰り旅行にいったりなどもしました。いつもの夏と比べたら、上等の夏を過ごせたのではないかなと自賛しております。

 

今まで印象に残っている夏はなんだろうなと思い返してみようとしますが、まったく覚えていないのです。ただ、確かに素敵な夏はたくさんありました。それだけは覚えています。ということは、この仕事をする前は、夏という季節を充分満喫していたということですよね。楽しいことは一瞬で、悪いことは一生残りますね。

 

閑話休題

 

ブログのタイトルですが、怖さ。

実は今、とてつもなく気になっている人がいます。これを「好き」と言わないのは、ブログのタイトル通り「怖さ」です。

 

実はね、あったことないんですよ。

連絡は取り合ってるし電話もしていますが、あったことないんですよ。

その状態で相手に「好き」なんて言えます?とか言いながら、相手にはそれを伝えてしまっているのですが…まぁ、信じてもらえないですよね。仕方ないです。

 

その人が気になるポイントはたくさんあって、3つや4つじゃ足りないんですが…一番はその人の持っている空気感です。素朴でかわいらしい空気感。SNSでしか感じ取れていませんが、その人を取り巻くものすべてが自分の琴線に触れる。電話で声を聴くだけで胸がドキドキして心が満たされていく感覚。その人と連絡をとりあっているだけで、頭の中に「幸せ」という文字が浮かびます。

 

世間では「会ったこともない人にそんなに入れ込んでるのはおかしい」という風潮ですよね。自分でも他人がこんなこと言っていたら、そう思います。でも、なってしまったものはしかたない。自分の中ではとても大切な人。誰にも触れてほしくないなと、思ってしまうくらい焦がれている人。今後どうなるかはわかりませんが、じっくり自分の気持ちと向き合いつつ、その人ともっと仲良くなれるよう頑張ります。

楽しいことしかしたくないよ

電波少女は言いました

「楽しいことしかしたくないよ」

 

ONIGAWARAは言いました

「楽しいことしかしたくない、ってそれってなんかダサくない?」

 

「楽しいこと」は移ろいゆくもの。昨日まで楽しかったことが、今日は楽しくなかったり。昨日まではあんなに嫌だったことが、今日になったらとても素敵なものだと気づいたり。その時々によって変わります。

 

では、なにをもって「楽しい」と言えるのか?

ここで楽しいを分析してみます。

 

・自分がやりたいことができた=楽しい

・自分のやったことで相手が喜んでくれた=楽しい

・悩みが解決した=楽しい

・新しいことを覚えた=楽しい

 

今思いつく限りでも4つもでてきました。

この中のどれかひとつでも叶うことができたら、それはとても上等な1日だったと言えるのではないでしょうか?

 

実はこの「楽しいこと」というのは、なかなか気づかないことがあります。それは日常のささいなことに隠されていて、溶け込みすぎて気づく前に通り過ぎていってしまいます。意外と近くにあるのに気づかなかったりするんだな。

 

笑顔で毎日を過ごしたり、周りにたくさん人が集まる人というのは、その「楽しいこと」を拾える人なのかもしれません。それを拾える手伝いができればいいなと思いながら、今日も生きております。無理矢理でなく、そっと手を添えて、握ったらわたしは手を離す。貴方がそれをしっかり握れるように。大事にしまってくれるように。

 

明日も休みの皆さんは、いい休日をお過ごしください!

知らない映画の結末、教えてくれても、つまらないもの。

久しぶりの投稿です。なんで投稿していなかったのかと言いますと

 

「パスワードを忘れてしまっていたため」です。

 

またブログをちょこちょこと書いていきたいと思いますのでひとつ、よろしくお願いいたします。

 

前回のブログからだいぶ経ちましたが、わたくしついに愛知県民になりました。東京にいるフレンズのことが恋しいなと思いながらも、ここでやっていこうと自分を奮い立たせる毎日です。環境には適応できても、独りという寂しさにはまだまだ慣れません。頑張ります。

 

先日、友人がこんなことを言っていました。

「よく恋愛相談されるんだけれども、そもそも覚悟も甲斐性もないのに、好きとか嫉妬とか束縛とか、理解できない。」

なるほど。人を好きになる、というのはどうやら「覚悟」が必要みたいです。

この言葉に僕は、しっくりきました。

 

他人の人生の近くにいることというのは、どんなことがあっても離れないという意思をもたないと自分が潰されてしまいます。それは悪いことではないのです。誰でも自分が可愛いものです。しかし、人を好きになるというのは「受けいれること」と「諦めること」の連続ではないでしょうか。恋愛をしたことがあるひとでそんな経験をした人はたくさんいると思います。自分が一番だと思うのであれば、片思いなんてもっての他なのです。相手のことばかり考えてしまい、自分をどんどん傷つけてしまう。

 

好きになるのは覚悟が必要。

どんなことがあっても味方でいれる覚悟。自分のしたことや相手にされたことに対して後悔しない覚悟。一番必要なものは、好きになった相手のために自分の人生を使える覚悟なのかもしれません。

 

そんな相手が見つかるのは、果たして何時になるのやら。気長に待ちたいと思います。